バランスをとるためにバランスを崩し続ける

 バランスをとるオットセイ 
 オンラインヨガの本田信英です。
 
 生活の中にはこれでもかというくらい種々様々な均衡があります。
 プライベートと仕事、動と静、陰と陽。夢と現実、
 どちらかに偏り過ぎれば、必ずあとで揺り戻しがきます。常に僕達はバランスをとることを要求されています。
 
 ただ、この「バランスをとる」ということが僕はよくわかっていませんでした。
 なんとなく、中心で動かないことをバランスと使っていました。

 けれど野口体操によって、その本質の切れ端をつかみました。

 バランスを取るということは、常にバランスを崩し続けることだ。

 そのことがストンと腑に落ちて胸が熱くなるくらいの感動を覚えました。
 あまりの興奮に目がギンギンに覚め、遠足前日の子どものように布団に入ってもなかなか眠れませんでした。

野口体操って

 

 野口体操は頑張りをすて、体の力を抜き重さに任せることによって生まれる、ゆらゆらと揺れる気持ちのいいを動きを基本としています。辛い訓練に耐え努力・我慢して強くなろうとする在り方はとりません。自分にとって楽な在り方を見つけようとする姿勢を大事にします。楽であるということを積極的な「ゆとりの概念」として捉えています。所詮、無理は無理だからです。しかし、『無理をしなければ無理ができる(野口語録)』とも考えています。

 したがって野口体操は、量的価値観による筋肉増強を主目的とする従来の体操観を、根底から覆す理論と方法によって成り立っています。まず骨格と筋肉で構築された解剖学的な身体観を、重さの方向(地球の中心)を念頭におき、現実の動きに即して見直すことからはじめます。いわゆる体が硬いという状態は、筋肉が必要以上に緊張し続け、その結果として過労になっているところからおこります。力こぶに象徴されるように、筋肉は能動的収縮性緊張をすると「短くなって、太くなって、固く」なります。従ってそのような状態のまま体を使い続けると老化が早まります。本人の意識はどうあれ、ストレッチを行うときまで緊張を強いた状態のままということは、不合理なやりかたであるといえます。筋肉は力を抜けば「液体的」に柔らかくなります。この液体的なイメージで体をほぐすことから得られる実感が、生きる基礎感覚でありたいと野口体操では考えます。
 (公式サイトより)

 数年前から野口体操については知っていて、本も読んだことがありました。
 当時は「面白いなぁ」と漠然とした感想を懐いただけでした。

 しかし、なにかに突き動かされるように改めて読み直してみたところ、まるで別物のように文章が輝いて見えました。

動きはバランスの崩れによって起こる

動きとはAとBの相対的な関係の変化なんです。バランスが崩れなければ、動きは生まれません。しかし、全体のバランスがとれていなければじゆうな動きは生まれないんです。
(『野口体操 感覚こそ力』羽鳥操 p50)

動きが生まれるためにはバランスの崩れが必要条件である。従って、鉛直方向にぶら下がる状態を続け、平衡を保ちながら、微小なエネルギーによって微妙に揺れるモビールは、逆に複雑微小な平衡の崩れを精細・正確に感じ取り、即応する「平衡の崩れの多重構造体」「非平衡系」である、といえる。
(『野口体操 感覚こそ力』羽鳥操 p51・52)

 
その文に出会った時、僕の中で閃くものがありました。

 バランスを取ることってそういうことだったのか!

グラグラせずに立つってどういうことだろう?

崩れかけのレンガ
 抽象的な意味でのバランスだとわかりづらいので、身体の動きで考えてみます。

 例えば、どんな形でもいいので片足立ちをしてみます。
 手で支えたりはせず、足一本で立ちます。

 当然ながら、両足で立つ時よりは安定しません。
 だから、これまでの僕の考え方だと、頑張って立とうとするわけです。

 バランスを取るというのは現象としては、その場に留まることです。
 つまり、動かないことだと思い込んでいました。 

 頑張って立ちながら、でもリラックスして立つことが理想のバランスである、と。 
 この時点で矛盾しているのですが、それが慣れの問題だと感じていました。

 けれど、野口体操の考え方に触れたことで、前提から間違っていたことに気づきました。

バランス感覚の弱い人はバランスを崩すのが下手

 確かにバランス感覚が優れた人は動いていないように「見える」
 けれど、その内側ではバランスを崩し続けている。

 片足立ちをして、右に重心が傾いたら左に重心をずらす。
 すると今度は左に寄りすぎて、また右へ。

 それが一般的なグラグラする人の感覚だと思います。
 バランス力のある人も多くの人がやっていることと同じことをしているのでしょう。

 ただそれが、とても微細に、豊かにそして瞬時にできているというだけでした。
 本来であれば気づかないくらいのバランスの偏りに気づき、修正できるのです。
 
 逆に言えば、バランスが苦手だという人は、バランスを崩すことが苦手なのでしょう。
 
 その場に留まろうとするとすればするほど力みが生まれて、その場に居着いてしまいます。
 そのせいで、僅かな呼吸や意識の乱れによって、途端にグラグラしてしまう。

 それでも頑張っていると、ある瞬間に立て直しが不可能になって、ドン! と足をついてしまいます。
 これ以上は危ないと思っても、反対方向に修正できないから、立て直しできないところまで傾いて、両足をついてしまうのです。

 動きが生まれるためにはバランスの崩れが必要条件である。
 ということは、バランスを取るためにも動きが必要なんです。

 だって、僕達は完璧にピタリと止まることはできません。呼吸も心臓の鼓動も動きです。

 常に動きながら、細かくバランスを崩しながら、全体のバランスを取る。
 そう考えると、とても楽になりました。

 バランスを崩しちゃいけない。その思い込みが外れることで、むしろバランスが取りやすくなりました。

バランスを取るためには脱力しなければいけない

 バランス崩し
 余分な力はどんどん解放していくことで、身体を割って、細かく動かすようにできます。

 例えば、肩から手にかけて力一杯力んで腕を振ってみたらまるで一本の棒のように硬い動きになります。
 十分にリラックスした状態であれば、腕はしなり柔らかい動きになります。

 もし、バランスをとることが「動かない=固める」のであれば、むしろ精一杯力んだ方がいいはずです。
 けれど、やってみるとそれでは上手くいきません。

 崩し続けながらバランスを取るならば、十分にリラックスして指先の関節1つずつまで緩やかに動かした方がいいでしょう。

 つまり、バランスをとりながらリラックスするのではありません。
 バランスを取るためにはリラックスしていなければできないのです。

踏ん張るようになってしまった理由

 この発見とともに、僕の中で1つ疑問が浮かび上がってきました。
 そもそも、なんで僕は頑張って立つということをバランスだと捉えるようになったのだろう?
 
 振り返ってみると、立ちポーズの時に言われた言葉が蘇ってきました。
 
「木の根っこのように足を地面に根づかせる」

 バランスを取る時にそんな表現をするインストラクターがしばしばいます。
 伝わり方はそれぞれなので、それが間違っているとは思わないですが、その感覚表現を聞いて僕は頑張って立たなきゃと感じました。

 木のように丈夫に大地にくさびを打ち込むことができればいいのですが、人間はそれができません。
 その代わりに自由な足があるのだから、わざわざそれを動けなくするような身体の使い方って馴染まない。
 僕はそう思うわけです。
 
 その代わりに動かし続ける。
 停滞を避けて、バランスを崩し続けながら、バランスをとる。 
 そうすれば踏ん張る必要なんてなくなります。

おわりに

 個人的に今回のことはものすごい大発見で、会う人会う人に熱弁していました。
 バランスに対する価値観が変わったことで、他の物事へのバランス感覚へも影響が及びそうです。

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