先日、自分がやりたいと思っていたことの前提条件が脆く崩れ去るという経験をしました。
人間が生まれ、成長していく過程で色んな体験をして、それぞれの信じるものを確立していきます。
それは変えようと思うほどに変えられないような強固なものではあるけれど、同時にとても脆いものです。
自らに言い聞かせるように信じてきたことが幻覚のように消え失せてしまってかなりの衝撃を受けました。
正直なところ、まだ完全には消化できていません。
けれども、余韻を残す今だからこそ感じることがあります。
自分の根本にあるものってなんだろう?
私達の行動にはその動機となるものがあります。
なぜ食事をするのかといえば、お腹が減るからだとか健康のためだとかそんな動機が出てきます。
「私(自分)がわからない。」
私はそんな問いを投げかけました。
10代の半ばで自らのコントロールを見失い、もがき苦しんできた中でいつしか芽生えてきた疑問でした。
私はどこに存在して、どんなことを考え、動いているのか。
感情のように揺れ動くものではなく、もっと根源的で普遍的な「私」って一体なんだんだろう?
それがさっぱりわからず、知りたいと願ってきました。
そして、その疑問が今自分のやっているヨガであったり、ボディーワークへの興味に繋がっているのだと思っていました。
すなわち、身体感覚というものを通して、年齢と共に見失ってしまった「自分との再会」を目指すことです。
急所を突く問いかけ
そんな私に対話の場で1人の方が問いかけてきました。
「あなたは自分が存在すると思っているの?」
その瞬間、息が詰まるのを感じました。
これは痛いところを突かれた、と心がざわめきました。
もしかしたら、自分の根本にあると信じてきた固定化された「私」なんてものは存在しないのかもしれない。
その可能性に至り、頭の中は一気に混乱し始めました。
前提条件だと信じていたものが崩れてしまったために、自分のやっていることとの繋がりが絶たれてしまったような感覚に陥りました。
なんでヨガやっているの? なんで身体を動かすことを大切にしたいの?
その答えが一気にあやふやになってしまいました。
手繰り寄せていたはずの糸が切れ、かなりの心細さを覚えていました。
それ以降の会話は思い返してみても結構おぼろげで、自分の頭で繰り広げられる議論についていくのに精一杯でした。
私たちの根本にあると思っているものは幻影かもしれない
そんな混乱を経験して、「自分のやりたいと思う理由」なんてものはあてにならないものだと感じました。
的外れ、ではないけれど的の端っこであったり、的に届いていなかったりということはザラにあるのでしょう。
だから、行き詰まりを感じた時、その背景にあるものを1度見直してみることって必要なのかもしれません。
例えば、凄く難解な問題があって、壁に当たって悩んでいるとします。
なんとかして解けないものかと試行錯誤しているのですが、そこで立ち止まってみます。
いや、でもちょっと待てよ、と。
そもそも私は本当にこの問題を解きたいのだろうか?
誰かの意図によって「解かなきゃ」と思い込まされていないだろうか?
そんな風に少しさかのぼって前提となるものから考え直してみると、実はその問題は解かなくてもいいかもしれません。
自分の悩みの種は単に自分が生み出しているだけ。
自分の根っこというものは根というくらいだから、深いところにあって、そうそう簡単に引っ張りあげられるものじゃないです。
何度も自己内省して、そうして徐々に明らかになるものじゃないでしょうか?
だから、現在自分の核にあると思っていることはたまねぎの皮みたいに簡単に剥けてしまう。
そしてその内側にあるものもまた剥けていくのでしょう。
外側の皮で守られた中身はデリケートで傷つきやすく、今の私のようにともすれば外気と接することで痛みを伴うこともあるでしょう。
けれど、内省することって今まで自分が目を向けなかったことを見ることだからそういうものなのでしょう。
理由が必要なのは他人のため?
私達は衝動が先にあって、それに対して理由を後付けでくっつけているのかもしれません。
ワクワクとかっていうのは全部後付けで口実に過ぎないのかもしれない。
それがネガティブだろうが、ポジティブだろうが、やりたいこと自体は揺らがない。
正直なところ理由はなんだっていいのでしょう。
だから、やりたいとかやりたくないとか理由を求めることはあまり意味がない。
少なくとも個人にておいてはそれは重要ではない。
理由が必要なのは、集団において他者を納得させるためなのでしょう。
だから、やりたいと思ったらやってみればいいんじゃないでしょうか。
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