飼い猫の死に思う

猫
 (※イメージ画像)
 オンラインヨガの本田信英です。

 先週、実家で飼っていた猫が亡くなりました。
 私はその現場に立ち会えませんでしたが、静かに息を引き取ったそうです。
 
 実は去年の暮れに、犬も亡くなったばかりです。

 立て続けに身近な「死」に触れて、否が応でも考えさせられました。
 

死ぬことの臨場感

 

死までの過程に触れる

 私の祖父は父方母方共に亡くなっています。
 ただ、会う機会の少なかった2人の祖父の死は私にとってあまり現実感のないものでした。
 
 もちろん悲しみの感情はあれど、そこにはどこかで臨場感が欠けていました。
 その理由がわからず、当時は混乱したものですが、今ならばその理由がわかります。

 老いて死ぬまでの過程を断片的にしか触れることができなかったからです。

 物心ついた時から祖父母は既に「おじいちゃん、おばあちゃん」でした。
 だから、若い時のことなんて知りません。

 話には聞いても、年に数回しか会えない祖父について知ることは決して多くはありませんでした。
 
 しかし、犬猫の場合は違います。
 実家にいる間は毎日触れ合い、散歩に連れて行くことだってありました。

 おまけに犬猫は手に収まるくらい小さい頃から知っています。
 それがあっという間に大きくなり、私を抜き去って、果ててしまいました。
 
 特に衰えを見せ始めてからのスピードは凄まじかったです。持ち上げるのも辛いくらいだったデブ猫が、半年で抱きしめたらポキリと折れてしまいそうなほど痩せ衰えたのには衝撃的でした。抱き上げた時の指に伝わる骨の角ばった感触はそれだけでとても不安になりました。
 
 けれど、そうしたプロセスを経ることで死をより身近なものとして感じられました。

 心の準備が整い、「きちんと悲しみに暮れる」ことができました。
 なんだかおかしな表現かもしれませんが、追い立てられるように生活していると悲しむこともできないまま現実に戻ることになってしまいます。
 そうすると、死が身体の中に沈殿し、消化できないまま胃もたれを起こしてしまうような気がします。

いつ死ぬのだろう?

感覚と事実のギャップ

菊の花
 人はいつ死ぬのだろう?

 そんなことがしばしば語れます。
 生命活動が停止した時を持って「死」という言い方もできますし、人々から忘れ去られた時が「死」だとする考え方もあります。

 私の中ではそれに対して思考がまとまっていません。

 ただ、本当に猫が死んだのか混乱したことがありました。
 どこかからひょっこりを顔を出しそうな気配を感じる瞬間があったのです。

 それは郷愁に駆られているとも言えますが、それだけじゃありません。
 先日亡くなった後で実家に寄った時に、ふと猫の匂いがふわっと鼻腔に漂ってきました。

 当たり前です。
 それまで住んでいたのですから、いきなり匂いがなくなるということはありません。
 目には見えないけれど、確かに猫の生きていた時と変わらない匂いや気配を感じる瞬間がある。

 でも、どれだけ姿を探せども見つけることはできません。
 その相反する感覚はより感情を刺激しました。

私達はどこかで死を身近に置いておきたいのかもしれない

 一昔前の大家族は減り、核家族化が進みました。
 そうした中で、身近に死や老いを感じる機会を私達は失いつつあります。
 
 けれど、どこかでそのことに危機感を懐いていて、ペットを飼うのかもしれません。
 だって寂しさを埋めるためにペットを飼ったとしても、多くの場合はペットの方が先に死にます。

 その存在が自らの中で大きくなればなるほど、また喪失感も膨らんでいきます。
 動物を飼う前にそのことに思い至るはずです。
 
 それでもなお飼うのは、やはり死とつかず離れず生きていたいのかな、と思います。

 私達が生きている限り当たり前に訪れるものですから、殊更避けたって仕方ありません。
 それよりもしっかり折り合いをつけた上で、どうやって生きていくのかを考えていけたら素敵ですね。

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