もの凄い記事に出会いました。
感動して、何度も読み返してしまいました。
今回の記事は最後まで読まなくてもいいので、リンク先の記事は是非最後まで読んでみてください。
頷きすぎて、首が飛んで行ってしまいそうでした。
まさに私がヨガでやりたいことってこういうことです。
柔軟性や筋力の部分は続けていれば勝手に向上していきます。
だけど、気づく力ってきちんと環境と時間を用意しておかないと育まれないと思います。
目次
なにもしない勇気
たぶん、教えてもらうことは簡単だったのだろうけれど
大事だったのは、いま、自分で気づけたことなんだ。
そのために、12時間必要だった。
いや、まだまだ必要だけど。でもとりあえずは、気づいた。
ほっとかれた時間、意味があった。すごい。
プロセスを学べば、他のことにも活かすことができます。
けれど、実際はその仕事に役立つ能力だけを身につけるのが現代のあり方の主流になっています。
各種マニュアルはその最たるものです。
私は現実世界のレッスンでもほとんど補助をしません。
それはなぜかといえば、「上手く効いていない状態」も大事だと考えているからです。
「インストラクターが言っている姿と自分のやっていることがどうも違うぞ」
その違和感に気づくことこそ価値があります。
例えば、あるポーズを補助してもらって効かせることができるようになったとしましょう。
けれど、家に帰ってやってみたら全然できない、ということが私が生徒として受けていた時にありました。
自分でその形を見つけたわけじゃないので、再現ができないんですね。
これが曲者です。
ヨガを1つの手段とする
アドバイスをもらったり、誘導されて見つけたものは、できたような幻想を懐かせます。
自信をつけさせるという意味においては有効なんですが、簡単に見つけられる代わりに容易に見失ってしまいます。
また、補助してもらったポーズだけができるようになるだけで、他のできないポーズができるようになるわけでもありません。
一方で、自分なりに工夫して探りながら「コレッ!」という感覚を見つけられたら、その気づく力は他の動作にも活かすことができます。
そして、それは勉強から仕事、趣味に至るまで生活全てに渡って応用できる力になります。
だからオンラインヨガは「ヨガを学ぶ」のではなく、「ヨガで学ぶ」のだと私は表現します。
「なにもしない勇気」とでも言いましょうか。
終着駅のベンチで満足気にくつろいで待っている人に、あえてなにも言わずに放っておく。
するとゴールだと思い込んでいた場所に不安を感じ始め、実は自分には足があって、その先どこまでも歩いていけるのだと気づく瞬間があるでしょう。
だって、私達はお腹が減るし、風呂に入りたいし、できれば柔らかいベッドで寝たいはずですから。
そうして歩き出した瞬間から本当の一歩が始まります。
一歩先へといくために
その前の「見る」こと
「気づく」ことに
自力でたどり着く時間も、サポートもなくてそん中で、いろんな想像力や、気づく力が衰えてしまってるんじゃないかなーって思う。
職人の下積み
職人の世界では長い下積みや修行期間があります。
では、その下積みの中でなにを養っているのでしょう。
私は職人とは縁がないので詳しくはわかりませんが、下積みでやらされることはほとんど雑用です。
寿司職人が寿司を握らせてもらうために10年近い歳月がいるそうです。
その10年の歳月って握らないんだから、無駄だと捉えることもできます。
最近は3ヶ月で寿司職人としての技術を教えてくれる学校もあります。
そこを卒業して実際に寿司職人として活動していく人がいるのですから、技術的には3ヶ月もあればいいのかもしれません。
けれど、下積みが本当に不要なものであれば、現在に至るまでになぜ淘汰されてこなかったのでしょう?
一人前の職人となった人が、弟子に同じ修行を課すということは、そこに体験した者にしかわからない宝が眠っているのでしょう。
長い歳月の中で見本となる師匠の動作をただ見ること、そして気づくことが内包されているのかもしれません。
教えてもらうと、それ以上先へ進めない。
教え込まれたものの最大の弊害は、それを昇華させることができないということにあると思います。
完成された形だけを教えてもらうと、どういう経過の中でその形が確立されたのかがわかりません。
だから、なにかを工夫したり、変化させたりしようと思った時に、立ち往生してしまいます。
それはさながら暗闇の中で、自分の足元だけが照らされているようなものです。
前に進みたくても、自分が歩んできた道はないので、そもそもどこが前で後ろなのかもはっきりしません。
そうなると、もはや闇雲に進むありません。
不可能とは言いませんが、相当な苦労をしなければ前に進めないというわけです。
意味を求めず、淡々とやる
なんでこんなことをしなければいけないんだ。
まったくもって無意味だ。
時にはそんな不満を懐きながらも、淡々と愚直に続けていると、ふとある時に気づきが降ってくることがあります。
無意味だと思っていても、身体には確実に蓄積していくものがある。
それは眠っている感覚を解きほぐし、目覚めさせてあげる過程なのです。
最初から意味があるのではなくて、続けていくうちに意味が芽生えてきます。
人間なにも感じないということはありません。
今一度見直してみる
期限や効率に追い立てられながら暮らしていると、じっくり感覚と向き合うことができません。
検索すればあっという間に答えを得られる時代ですから、眠らせておくことはとても簡単です。
本当に私はそのものを、人を見ることができているのかな?
あるいは、聴くことができているのかな?
そんな疑問をあなたは懐いたことがあるでしょうか?
毎日身体を動かしていると、なんとなく起きた瞬間からその日の体調がわかるようになってきます。
私は特にお酒に弱い体質なので、量に関わらず(たった一口でも!)お酒を飲んだ翌日は露骨に身体が重いです。
私の友人で自分の口の中の肉の付き具合で自分の体重がわかる人がいます。
スポーツを長年やってきた人の多くは自分のベスト体重を持っています。
そうした感覚を養っていくにはやはり継続していくことに加えて、自分の状態を振り返ることが必要になっていきます。
単純だからこそいい
リンク先ではひたすら12時間デッサンをおこなっていたそうですが、シンプルなことほどいいと思います。
例えば、それが2人で1つのものを描くような課題となると、途端に自分以外の要素も絡んできて、意識が分散されてしまいます。
物事はシンプルであるほどにいい。
余計なことを考えずに、そのことに集中できるから。
だから、プロになっても野球選手は素振りをしたり、投げ込みを行います。
その中で自分のフォームをチェックしています。
オンラインヨガの10分ほぐしもなるべくシンプルにと考え、今の形にしました。
シンプルな動作で自分の感覚を見つめ、気づきの力を少しずつ丁寧に研ぎ澄ましていくのです。
大事なのは、気づくこと。
大事なのは、ただただ、見ること。
時間を費やそう。
無駄だと思える時間でも過ごしてみよう。