2日間のファシリテーション講座に行って来た。
声がまともに出ない状態だったけど(参加していた方には申し訳ない)、不調を押してでも行って良かった。
心の底からそう思う。自分の中でくすぶり渦巻いていた疑問が氷解して、綺麗な海が広がって来たような印象だ。
ここ数年でファシリテーションという言葉を耳にする機会はとても多くなった。
実際、私自身もファシリテーションの名を冠するワークショップに顔を出したことが何度もある。
ただ、どれだけ質問をしても説明を受けても結局、「ファシリテーションってなんなの?」「ファシリテーターってなにする人なの?」ということがしっくりきていなかった。
それはおそらく私が今まで触れてきたものがファシリテーションのテクニック面に焦点があてられていたからだと思う。
Aの技法があって、Bのように使えば、上手くいく。
あるいは重要な要素を教えてもらったりする。
それが無駄だとは思わないけれど、私の疑問はいつまで経っても解消されなかった。
だから、ファシリテーションってなんなのさ!
今回のファシリテーション講座ではその辺をぼかすことなく、明確にそして丁寧に説明していただき、体験させてもらえました。
端的な定義からファシリテーションとファシリテーターの違い、ファシリテーターが生まれた歴史まで。
歴史を紐解けば、なぜファシリテーターに倫理観が求められるのが腑に落ちた。
ファシリテーターの育成に取り組んできた南山大学がなぜ資格化をしないのかにも深い理由があることを知った。
背景や流れを知ることで、そこに明確な信念と想いがあり、言い知れぬ感動を覚えた。
共通の体験をするということ
グループにおいてなにか意思決定を求められることがある。
でも、多くの場合それは上手くいかない。
なぜそうなってしまうのか、ずっと疑問に思っていたのだけれど、ファシリテーションのサイクルを知ることで理解できた。
体験→意識化→分析→仮説化→体験……
4つのプロセスを繰り返すことで個人・グループは成長していく。
その途中の技法としてファシグラやってみたり、付箋を使ってみたりするわけだけど、それを使っても意思決定できない。
どれほど相手の話を聞いても、自分の意見を真摯に伝えても出口がどこにあるかわからない感覚に途方に暮れる。
そういう時はグループにおいて共通の体験がないのだ。
だから、それぞれの立場から別々の体験を通した意見を述べている。
相手がどんな経験をしてきたかも知らないので、意味もわからないし共感のしようもない。
そういう時には共通の体験をしてみることが必要なのだ。
関連映像を見たり、講師を呼んで同じ話を聞いてみる。
その共通体験から得たものを手掛かりにすることで、意思決定のとっかかりが生まれるんだ。
認識の違いをきちんと埋めることで同調が共感へと変化する。
この2日間を過ごす中で、色んな人の間で度々起こっていたことがある。
それは認識の違いによるコミュニケーションの行き違い。
例えば、スカイツリーの話をしていて
「あそこって高いよね」
「そうだね」
という会話があったとする。
一見すると会話が成立しているのだけど、自分は「高度の高さ」を相手は「入場料金の高さ」を話題にしていたという齟齬が起こりうる。
実はそういう会話は日常に溢れていて、「ヤバいね」「確かに。ヤバいヤバい」なんてその典型だと思う。
お互いに共感しているつもりなんだけど、「じゃあ相手はどういう意図でヤバいって言ったの?」と問いかけたとしたら、てんで見当違いの答えが返ってくるだろう。
それは自分の世界観から一歩も外に踏み出すことなく、ただ口先だけの同調をしているだけだから。
起こっている事実だけを見ているとそういう行き違いが生じてしまう。
ファシリテーションはそこでどういう意図で言ったのかのプロセスに光を当てることなのだろう。
そうすると、お互いの「ヤバい」の意味がわかりあえて、本当の意味での共感が生まれる。
だから面倒に思えても「この捉え方であってますか?」と素朴な問いを発して、相手と自分の認知をすり合わせる作業を続けることって重要なんだ。
それを体感してから、自分と相手だけじゃなくて他人同士の認識の違いにも意識が向くようになり、そのギャップを埋めることで他者の関係性にもアプローチできることがわかった。
自分への気づき
私はその場において、役割を得て落ち着こうとする。
その場にいる人を観察しながら、その場で不足している役割を担おうとする癖がある。
だから、その場の役割がはっきりしない場で「さあ、どうぞ話してください」と言われた時に混乱してしまう。
自由過ぎるとどうしていいのかわからない。自分のありのままでいようとすることに対してどこかで忌避感があるのだろうと感じた。
その癖からも自由になって引き出しを増やしたいと思っている。
「その場に必要な役割が勘でわかるんですか?」
終わりがけにそんな問いを受けてドキッとした。
えっ、みんなは違うのかな?
グループで潤滑なコミュニケーションができていない時は、発言者と傾聴者のバランスが崩れている時だと私は思っていて、どちらかにバランスが傾いているのかなんとなく肌で感じることができる。でも、質問されてみると、どこから手掛かりを得ているのか言葉で説明できなくて、虚を突かれたのだろう。
また、フィードバックで私は言語化するのが上手いという意見をいただいた。
自分では話がとっちらかっていると思うのだけど、相手からの問いを受けた時の受け答えは相手に意図が伝わるように答えるので、そういう部分が言語化が上手いに繋がっているのかな、と。
自分事、ヨガの話
私はずっと今あるヨガのレッスン形式に疑問を持っていた。
スタジオの前でインストラクターが誘導しながらポーズを取り、それを来た人が真似る。
そして、そのポーズの中で自分を見つめる。
それっておかしくない?
でもその違和感を明確な言葉にできなかった。
だから、「嫌いなんですよ」と好き嫌いで誤魔化していた。
けれど、ファシリテーションの4つのプロセスを知った瞬間に道は開けた。
ヨガのレッスン形式って、「体験」と「意識化」のプロセスで終わってしまっているんだ。
そこから「分析」して、「仮説化」してアクションを起こすことが抜けてしまっているから、自分1人で成長することができない。
インストラクターがいなければ、自分を高めていくことができない。
それはスタジオのビジネス的にはありがたいことだけど、受ける側からすると親切じゃない。
私がするべきなのは、「分析」と「仮説化」を促すことなんだ。
それができればオンラインヨガの自学自習も達成できる。
私はヨガファシリテーターになりたいんだな。
揺れる電車の中でふと湧いた答え。
ずっとそこにあったのに、気づけなかったものをようやく見つけた。
10代半ばで鬱を経験してから、ずっと可能性を上手く発揮できない人の力になりたいと願い、その気持ちは時を重ねるごとに積み上がってきた。
ただ、そう願っても私にはそれを実現させるだけの知識も知恵も能力もなかった。
いつも歯痒い想いをして自分の無力さを呪った。
けれど交流分析や傾聴を学び、ヨガを継続してきて、アドラーを知り、今個別に積み上げたものが少しずつ繋がりが始めている。
今日も講座の休憩中に乞われて少しだけ身体を動かすことをやらせていただいた。
ファシリテーターとしてのあり方が身についた時に、まったく新しいものが生み出せそうな予感がして、とても幸福な気分になっている。