沖ヨガでは生活全体を扱っているのですが、私達は普段どんなふうに日常を送っているでしょう?
改めて考えてみると言葉に詰まってしまうのではないでしょうか。
日常と非日常
2018年1月24日~25日にかけて全国的に寒波がやってきて、雪模様となりました。僕の住む愛知県で2日連続雪が降るのは珍しいことです。
まさに非日常です。
僕は朝起きると散歩しているのですが、普段は出会うことのない風景と感覚と出会いました。ふと思い立って、それらを記録してみたところ面白いことがわかりました。
以下はその記録の一部です。
・コンビニの駐車場でアイドリングのまま買い物する人々
・子どものうわずった声
・窓から子どもを見送る親
・手を振る子ども
・白い地面
・凍った地面
・水っぽい鼻水
・靴の溝に詰まった雪を叩き落とす動作
・どことなくピンと張った空気
・朝食の匂いが漂ってこない
・へっぴり腰で歩く人
・そろそろと歩く人
・キンと冷えた空気とぬるぬるした地面
・つけっぱなしの暖房の音
・足を取られる人
・ノロノロ動く車
・ほうきで雪を掃く人
・不思議と力む、散歩中の僕の身体
・結構なスピードで走っている自転車
・力を抜いていつも通りの歩き方をしてみる(数秒後には戻っている)
・いつもよりも多い人の姿(ちょっと早めの登校と出勤)
・しなる木の枝
・暖房の音
・往来の下り坂で滑って自転車から転倒する女子高生
・知らない女子高生とその自転車を助け起こす僕
・知らない人同士のほんの僅かな会話
・雪の掃除をする人々
・生まれる井戸端会議
・ワクワク、新鮮な気持ち
書き出してから自分で見直してみた時に、ハッとしました。非日常を書き出してみたことで、自分の日常が浮かび上がってきたのです。
つまり、「高校生とは話さない」という日常がある。
でも、そんなことをいちいち考えませんよね。
日常というのは当たり前になっているがゆえに、意識しません。
そうして、起こっていることや変化を見落としているのでしょう。
だから、初期段階を見逃して病気になってしまう。
非日常だと感じるということは、反対のところに日常があるということでもあります。
当たり前になっているがゆえに、日常を意識していないのです。だからこそ積極的に「私にとって日常とは?」を考える価値があります。
私達は普段なにを五感で感じて、考えているのでしょう?
日常を記録しておくことの意味
だからと言って、いつも非日常だらけでは疲れてしまいそうです。
また雪のように向こうから訪れるものを待っていたのでは、いつまでも日常も非日常もわからないままです。
日常がないのに、非日常もありません。
だから、日頃から記録をとっておくことが大事だと僕は思います。
日記やブログを書いたり、twitter、instagram、FacebookなどSNSで投稿をしたり。主に自分のためなので公開する必要もないのですが、そうやって記録を蓄積 していくことで日常が浮かび上がってきます。
僕は自分の書いた文書のほとんどはEvernoteに記録しています。なにか出来事があるごとにそれを記録したり、振り返りを書く。そうしていくと、見えてくるものがあります。
たとえば、上記の雪の記録をもう1度見返してみると、僕は視覚的な情報をかなり記録していることがわかります。一般的に視覚はよく使うものです。
つまり、非日常を味わいければ、普段はあまり使わない五感、たとえば嗅覚に意識を向けながら散歩をしてみればいいわけです。
きっとそこには多くの気づきがあるでしょう。
1つのこと・ものからでは決して気づけないことが記録の蓄積によって、自然とあぶり出されてきます。
そしてその量が増えれば増えるほどに価値は高まっていきます。
こんな便利なことはありません。だから、今日からでも日記を書くことを始めませんか?