わからないままでいる勇気

わからない
 オンラインヨガの本田信英です。

 なにか新しい人やもの、概念と出会った時に人間は「わからない」と感じます。

 これは自然なことです。今までの自分の人生になかったものが入り込んできたのですから、当然の反応です。
 ただ、それに対して、人は「わかろう」とします。
 それもまた自然な反応に見えますが、危険なことでもあります。

 僕は「わからないをわからないままでいる」ということがとても大事だと思うのです。

自分の枠に押し込めること

 わかろうとする時に、しばしばやってしまうのは自分の中にすでにある言葉や概念に落とし込めようとすることです。

 自分の中にあるピースをかき集めてそれっぽい形に仕上げていくのですが、それは結局のところツギハギだらけのハリボテで、本質から離れてしまいやすいのです。

 まったく新しい異物が入ってきたんです。
 それをいきなり理解できるはずがありません。

 例えば、ある日宇宙人侵略してきたとします。
 それに「まずは対話をするべきだ。いきなり侵略なんて酷い!」と言ったって仕方ないでしょう。
 宇宙人の理屈なんてそもそもわからないですし、コミュニケーションが成立するか、心を持っているかも定かではありません。
 それを人間の文脈で推しはかろうとしたって無意味です。

 じゃあ諦めなくちゃいけないかといえば、そういうわけでもありません。
 わからないという大前提を踏まえた上で、なんらかのアプローチをしていくしかありません。
 それは観察かもしれないし、対話かもしれないし、保留しておくことかもしれません。

 その時々にふさわしい対応を柔軟にこなしていくしかない。

 わからないままに触れていくことで、ゆっくりと異物が自分の身体の中に浸透してきます。
 そして、いつか本当に「わかった」と言える時がくるかもしれません。

 

レッテル貼りはわかろうとしているから起こる

レッテル貼り
 レッテル貼りというのも、自分の中にある論理の中で、全部を処理しようとしていることなんだと思います。

 だって、「わからない人」というレッテルは貼らないんですよね。
「おかしい人」とか「変な人」という具合に、自分の中にある言葉に当てはめて常識から外れたものを言い換えてしまう。

 自分の方がおかしい、とは人間なかなか思わないんですよね。
 だから「わからない」をちゃんと正直に言える人って、偏見の少ない人だとも思うのです。

 例え家族であろうとも、知っていることなんて限られたものです。
 自分の父や母がどんな学生時代を送ったのかを僕は知りません。

 じゃあ、なんでレッテル貼りをしたり「わかろう」とするのかといえば、わかってしまえばもう考えなくていいからです。
 楽をしたいのが人間です。

 1つの判断をした時点で、自分の中では確定します。
 そうすると、もうそのことについて考えなくていいのです。
 それってとても楽ですよね。

「わからないまま」でいることは、ずっと考え続けなくてはいけないです。
 ともすれば、それはすごくエネルギーが必要でしんどいことでしょう。

わかろうとする努力は諦めない

しめ縄
 わからないをわからないままに受け入れる。
 ただ、それを続けてできるようになると今度は別の問題も立ち上がってきます。

 つまり、「わからない」を放置することになりかねない。
 わからないままでいいや、と思ってしまったらそれ以上前進も後退もありません。

 わかろうと努めることはやめてはいけないのです。
 
 だから、僕がやろうとしていることは、
「わからないものをわからないなりにわかろうとして、でもわからないままでいる」
 ことです。
 なんだか禅問答みたいですが、この姿勢を忘れないように生きています。

 常にそれができているかといえば、できていません。
 人のことを判断するし、簡単にわかった気になります。

 けれど、最初からできるんだったらやらなくていいんです。
 できないからやろうとする。

 わからないままでいたものがある日、一本の糸のように繋がって視界がひらけるあの感覚は、とても美しく、そして心地よいのです。

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