オンラインヨガの本田信英です。
楽しむということが最近に目につきます。
けれど、楽しむって一体どういうことなんでしょう?
「楽しい」ならわかるんです。
感情の一つとして、起こっていることに楽しさを味わっているのでしょう。
だけど「楽しむ」というのは行為であって、能動的な意味が見え隠れします。
自分自身でも「楽しむ」という言葉を使いながら、でもどこかで違和感を覚えていました。
ただ、先日そのヒントを得ました。
遊び心の凄さ
先日、大型台風が上陸した時のこと。
傘がひしゃげて壊れながらも帰宅した際に、高校生と思しき少年達を見かけました。
その少年達のうち1人が上半身が裸でした。
雨で濡れた服が気持ち悪いから脱いでいるのかと不思議に思ったのですが、次の瞬間には違うことがわかりました。
もう1人、Tシャツを脱ぎ始めました。
しかも自分の手は使わずに。
つまり、風の強さだけで服を脱げるかに挑戦していたのです。
雨に濡れるのも気にせずに、「これ、いけるぞ!」と楽しそうに笑っているわけです。
その光景を見た瞬間に僕は色んなものが吹っ切れました。
ぐっしょり濡れた靴下の気持ち悪さも、額に貼りつく前髪のわずらわしさも、心に溜まっていた悪態もそれこそ風のように吹き飛んでいきました。
今とは別のものを見出す
楽しむ、ということはきっとなんでもないことなんです。
でも、楽しもうと思ってできることでもないのかもしれません。
だって、「台風が来た。これを楽しもう」とはなかなか繋がりません。
「楽しまなきゃ」と義務感のようなものが出てくると、余計に現在の楽しくない状況が際立ってしまいます。
だから、楽しむってそこに新しい可能性を見出すことなんだと思います。
アフォーダンスという概念がありまして、知覚心理学から来ているのですが意味としては以下の通りです。
これまでの間接的認識論では,環境からきた物理的な刺激を感受し,意味のあるイメージに仕上げると考えたが,環境はそれぞれ特定の性格を与えられた場所として存在している。つまり環境が動物の行為を直接引き出そうと提供 (アフォード) している機能をさす。
コトバンク
読んでもさっぱり意味がわからないですよね。
上記の例で考えると、台風の中に、「Tシャツを脱がすだけの力」を見出したから、高校生達は楽しめたんですね。
でも、台風自体がなにか変わるわけではなくて、もともとその要素を持っているのです。
ただ、それを人間が見出したかどうかです。
「傘を壊すもの」という側面も持っているので、それを見出したら「台風って嫌なものだな」となります。
だから、退屈さを見ている人は、今あるものとは違う要素を発見していけばいいのだと思います。