誰かのために自分のことをやる

 オンラインヨガの本田信英です。

 最近、会う人にたびたび「雰囲気が変わったね」と言われるようになりました。

 それは髪型が変わったこともあるのですが、どうもそれだけではないらしく「明るくなった」とか「誰だかわからなかった」と言われるくらいには変化があるようです。
 自分自身では自覚がなかっただけに「なぜだろう?」と考えて見たところ、つながりを欠いていた場所がカチリをハマる経験をしました。

慣れないことの積み重ねでズレた思考

 2017年の年明けから立て続けに新しいことに挑戦していました。
 進んで飛び込んで行ったもの、天から降ってきたもの両方ありますが、本業とは関係ない場面で人前に立つ機会もあり、新鮮な体験をさせていただきました。そのおかげで、自分の思考が幾分か変わったのは間違いありません。

 例えば、場における流れのようなものを感じるようになりましたし、ワークショップなどに参加していても「自分だったらどうするだろう?」と運営面について考えることが多くなりました。

 ただ、それは面が裏返るような劇的な変化と呼べるほどのものではなく、「ズレた」という表現がもっともふさわしいかもしれません。
 立っている場所が少しずつズレたことで、見える景色が変わってきたのでしょう。

 そのことに気づいた時に、色んなことが次々と繋がっていきました。

自分が変わると相手も変わる

「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分だけ」
 かつて僕に心理学を教えてくれた先生が、口を酸っぱくしてそう言っていました。

 そして、自分が変わると相手も変わっていく、と。
 
 僕は当時、したり顔で頷きながらも深い部分ではその意味を理解していませんでした。

 例えば、顔を合わせるたびに喧嘩になってしまうような関係性の相手がいたとして、それは結局のところ互いに売り言葉に買い言葉の応酬をしています。
 だから、そこでグッとこらえて売り買いを自分でやめてみると、相手も「おや、いつもと違うぞ?」と感じるようになります。
 それが継続していけば、喧嘩そのものがなくなっていく。

 そこまではわかっていました。
 でも、「なんで自分が変わると関係性そのものまで変わってしまうのか?」という根本的なことがわかっていませんでした。

 今なら少しだけわかります。 
 自分が変わることで、人との関わり方が変わります。
 そうすると、相手にも変化が訪れます。

人ともの

 例えば、なんらかのものを見るとします。
 自分の立つ位置が変われば、受け取る印象も変わってくるでしょう。
 正面から見えるもの、真後ろから見えるもので多少なりとも変化があります。
 ただ、自分が一方的に見ていることに関しては変わりがありません。
  
人と人

 けれど、相手が人となると状況は変わります。
 自分が見ていると同時に、相手も自分のことを見ています。
 この双方向的なやりとりの中で、「私」が変化して立ち位置がズレると、「私」と関わっている「あなた」も自然と変化することになります。

 だって実際には「私とあなた」だけじゃないんです。
 人には背負っている背景(思考、家族、生育歴など諸々)がありますし、周りにはもっとたくさんの人がいます。
 だから、「あなた」が今まで通りの風景を見ようとしたら、全員が元の位置に戻らなくてはいけないのですが、それはもうできません。

 だって「私」はもう変わってしまいました。
 そして、他人は変えられません。

 だから、今度は「あなた」の方がズレることになる。
 当然のことですが、ものと違って、人は自分の意志で動くことができます。
 互いに移動しながら、近づいたり離れたり絡み合ったりしながら、関係性って変化し続けているです。

 

「世のため人のため」に「自分のことを頑張る」のはなぜか?

 このことに気づいて、不意に思い出して、読み返した本があります。
 2年ほど前に読んだきり、記憶の片隅に追いやられていたのですが、ある一文が蘇ってきて、それを探していたら見つけました。

「こんなことしていられない。今、自分がこうしていられる皆さんのおかげだ。もう一度みんなのために歩き出さなければならない」p120

 これは大峯千日回峰行という過酷な修行を満行した塩沼亮潤大行満大阿闍梨が書いた本の中の一文です。
 大峯千日回峰行は9年かけて約50kmの道のりを1000日間歩くという過酷な修行ですから、そこで起こった出来事は想像を絶するものだったでしょう。

 ただ、僕がその文と出会った時、どうしてもわからないことがありました。

 自分が歩くことがなぜみんなのためになるのだろう?

 いや、もちろん応援してくれている人がいるから頑張る、というのは理解できます。
 けれど、歩くと決めたのは自分で、自分がしたいから歩いているわけです。

 それがなぜ「みんなのため」に繋がるのか?

 ボタンを掛け違えたような違和感がありました。
 そして、モヤモヤしながらも時間の流れとともにすっかりそのことを忘れていましたが、ちょっとだけわかりました。

 誰かのために、と願えばこそ僕自身を変えなくてはいけない。
 自分を変えることが必ず誰かに影響を及ぼすのだから。

 だから、安心して誰かのために自分のことに取り組もう。

 これは気構えの問題なので、口先ではいくらでも繕うことができます。
 けれど、根っこの部分にそれがあるのとないのとでは、起こってくる結果も違ったものになります。

 僕は塩沼亮潤大行満大阿闍梨が感じているレベルのことはわかってはいないでしょう。
 でも、自分の身の丈で見れる範囲のものから始めるしかないのです。
 
 TEDにも出ていらっしゃるので、動画を貼っておきます。

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