オンラインヨガの本田信英です。
最近声に関する興味が高まっていて、自分の中でああでもないこうでもないと意味のない声を出しています。
その時々にふさわしい声音があると思うのです。
目の前の相手(人数も)と状況と伝えたいことによって、必要とされる声が微妙に繊細に変わってくる。
それは、そのまま声を発する身体の変化でもあります。
子どもの感性と子守唄
子どもが集まる場で自分に注目を集めたくて、大声で呼びかけてみると面白いのですが、声自体は通っても子どもには届かなくて、ずうっと騒いでいるということがあります。
ただ誰よりも大きな声を出せばいいのではなくて、結局自分に対して呼びかけられていると感じないと全然反応しないんですね。
むしろ変な対抗心を懐いて、さらに大声を被せてくる子どももいます。
逆に、大きな声じゃなくても、ちゃんと相手に届けようとすると意外と通じる時もあります。
残念なことに僕自身まだふさわしい声を出すことはできないですし、この文章を読んでわかる人もそうそういないでしょう。
けれど、母親が子守唄で子どもを寝かしつける時、不思議と眠るのにふさわしい声で歌っています。
合唱のようにハキハキと遠くまで響かせるようにではなく、ゆったりと甘く、赤ちゃんの身体の中へと溶け込むように歌っていく。
リズムはやがてゆっくりになり、声量は細く消え入るように、そして最後は赤ちゃんの寝息と混ざり合う。
それは半ば本能的に、そうすることが良いとわかっているのでしょう。
届ける相手を強く意識する時、自然とその瞬間に最も適した声が出ているのかもしれません。
怒鳴りつけてはいけない理由
世の中で起こるコミュニケーションの不和って、伝えたいことと声音の間のズレが原因の一端じゃないかと感じています。
例えば、誰かがミスをして怒鳴りつけたとします。
怒鳴るというのは言葉の通りに怒りを表現するための声なわけです。
けれど、ミスをした誰かを糾弾したいのかというと、恐らくそうじゃないんですよね。
だって、怒鳴ってもミスはなかったことにはできません。
そこで自分が怒っていることを伝えたって仕方ない。
次はミスが起こらないように注意したいなら、そういう声を出さなくてはいけない。
怒りを懐くなということではなくて、それはそれで別の対処をしましょうよ、ということです。
しかし、実際には感情に引っ張られて「自分は怒っている!」という声で、「それで、どうするんだ!」と問うている。
肩を怒らせて、強張った顔から発せられる声というのはやはり硬質で、ぶつけられると痛いです。
当然相手は萎縮するでしょう。
一瞬でもいいから「今伝えたいことってなんだろう?」と自問してみると、変わってくるんじゃないかなと僕は思います。
1つ息を吐き出してみるだけでも、ちょっと肩の力は抜けて、声の角も取れていきます。
受け手としての声
声っていつどの瞬間に変わるんだろう?
声の受け手として気になっているのは、そんなことです。
インタビューゲームをやっている中で、話している人の声がガラリと変わることに気づきました。
「その人」についての話を聴いていく中で、声量は変わっていないのに、重みがあって、耳のすぐそばで話されているように感じる時があります。身体自体も変わっていて、表情はどこか虚ろで、目の前にいるはずの僕を忘れてしまったかのように俯いている。
そういう時というのは、大抵その人にとって大事な話をしている時で、ハッとさせられます。
ただ、その変わる瞬間というのを僕は捉えられたことがありません。
気づけば声が変わっていて、相手の放つ雰囲気も変わっている。
そんな経験を何度かする中で、声の変わり目ってスイッチのようにカチッカチッと突然変化するものじゃないのだと思うようになりました。
話している人の内的世界に緩やかな変化が起こっていって、それがある域に到達すると受け手にも知覚できるようになる。
それは僕自身の感度がまだ鈍いからかもしれませんが、腹の底に渦巻くものを声に変換して、体外に発するにはなにかしらの段階が必要なのだとも感じます。
言葉で伝えるではなく、声を届ける。
そこには一体どんな違いがあるのでしょう?
電子音声では、僕の心は揺さぶられないのです。
だから少なくとも音を伝えているわけじゃなくて、身体から発せられている生々しい声を求めている。
それがなぜなのかまだ僕もまだよくわかりません。