オンラインヨガの本田信英です。
僕はとても縛られることが苦手です。
例えば、マニュアル通りになにかをこなすことがダメで、最初はやっていてもすぐにアレンジしてしまう。
制限されると途端に息苦しさを感じてしまって、そこから逃げ出したくなってしまう。
だから、制限されることがとても嫌いです。
でも、最近少しその感覚が変わってきました。
完全な自由は動きづらい
なにもない広大な空間に突然投げ出されて放置されてしまったら、どうするでしょうか?
僕なら困惑するでしょう。
なんの制限もなくどのように振舞ってもいいし、なにをしてもいいとされた時に戸惑ってしまうものです。
完璧な自由は意外と不便で、居心地が悪いです。
どこまで行ってもいいよと言われても、行った後でどこに帰って来ればいいのかもわかりません。
では、家があって半径5km圏内ならどこに行ってもいいよ、と言われたらどうでしょう?
安心感が湧いてきませんか?
とにかくその5km圏内を探索しようと気持ちが向くはずです。
つまり、制限があることでやるベきことがはっきりするんですね。
制限の中に自由がある
身体というものもいわば制限です。
手足は360度回せるわけでもないし、どこまでも曲げ伸ばしできるわけでもない。
どのように動かしても、限界はやってくるし、無理に限界を越えようとすれば骨折したり、脱臼してしまいます。
身体がなければ、宇宙空間にまで飛び上がることもできるし、海の底まで潜ることもできるかもしれません。
しかし、なんでも簡単に手軽にできることが、必ずしも喜びに繋がるというわけでもありません。
わかってしまったらそこに神秘さを感じることもできなくなってしまいます。
有名な観光名所も、意外と地元の人は訪れません。
近過ぎていつでも行けるという気軽さが逆に足を遠ざけてしまうこともあります。
なかなか行けない。思い通りにならないからこそ、自由に動かせる幅を広げようとするわけです。
僕はかつて右肩を怪我して手術をしたことがあります。
利き手である右手を1ヶ月ほどまともに使えない状態で、とても不便しました。
右手が使えないことで、左手を使わざるを得なくなりました。
ただそのおかげで左手で箸を扱えるようになり、今でも食事は基本的に左手で食べています。
それは不自由さを体感したからこそ、開発された感覚です。
今まで当たり前にあったものが制限される時、人間は無意識に自由になるものを探しているのかもしれません。
だから、もし手足を縛られて身動きが取れなくなれば、どうしたら自由になれるかと思考を始めます。
思考が回らなくなれば、貧乏ゆすりをしたりと別の体動が生まれてきます。
このように制限をされた時に、今まで意識しなかった自由が浮かび上がってきます。
だから、時には制限の中に身を置くことも必要です。
とどまらず突破する
けれど、私自身もそうだったし、多くの人が制限されることを嫌い、自由を求めている。
制限がなければ自由も生まれないのに、制限を嫌うのはなぜだろう?
家と半径5kmを探検して安全が確保されているとわかった時、「外には一体どんな空間があるのだろう?」と興味が湧いてくるでしょう。
そうなると途端に半径5kmが窮屈に感じてきます。
だから制限の外へと飛び出していきます。
もちろんそこには迷いもあるでしょうけれど、危険よりも好奇心が勝つ時がいつかはきます。
本来そういうものであるはずなのに、いつまでも制限の中にいなければならないと思い込んでいる。
それは外からの圧力があるのでしょう。
「外は危険!」みたいな立て看板があったり、「外に行ったら命がいくらあっても足りないよ」と言う人がいたり。
その言葉を鵜呑みにして従っているから息苦しくてなって、自由を求める。
ある種、それは必要な葛藤で、乗り越えた時に制限の外へ飛び出せるのでしょう。
人は制限によって、安心して、窮屈さを感じて、自由になります。
ヨガをやっていると色んな壁にぶつかります。
自分の心身の硬さ、重さ、弱さ。
1つを越えてもまたすぐに壁が待ち受けているので、一体どこに自分の求めている理想があるのか、自由があるのかともどかしさを感じるかもしれません。
けれど壁にぶつかるということが既に成長している証です。
隅々まで自分を探索しているからこそ今の自分の限界に突き当たります。
そして、その壁を越えようと試行錯誤している時に最も変化しています。
だから、モヤモヤしたらはその気持ちを大事にしていれば、やがては突破できる時がくるでしょう。
オンラインも制限だ
僕は今、オンラインでヨガをやっているのですが、オンラインで話すことに未だに慣れません。
人と話す時、肩から上だけが画面に切り取られています。
その下で手足はどうなっているのか、周囲の環境はどうなのか、
現実の世界では当たり前にある、非言語的な情報がないことに僕はとても不安を覚えます。
ただ、それを制限だと捉えてみると見方が変わってきます。
余分な情報がないぶん、相手が話している内容に集中する意識が働きますし、見える情報、すなわち表情や声音から心情をより精彩に受け取ろうとします。
そのおかげかはわかりませんが、つい先日、対面で会った人の顔色が気になって「熱ありますか?」と尋ねたら「実は熱っぽいです」と返事が返ってきました。
自らを縛っている様々なルール、制限。
それによって一体なにが自由になっているのか?
そう考えてみると、ふっと心が軽くなってきます。