僕にはヨガや子ども相手など何人か師と呼べる人がいます。
接する時間はさほど多くなくとも、困った時には相談できるありがたい人々です。
感謝してもしきれないのですが、その感謝を示す方法として、師を越えたいと思っています。
尊敬すればこそ越える
「越える」と書くとなにか勝負をして、打ち負かすようなイメージを懐くかもしれませんがそうではありません。
どちらが美しいポーズができるかを競う、なんてことを始めたらそもそもヨガじゃなくなってしまいます。
教わったことを実践してできるようになり、さらにそこに自分の経験値を加えて伝えていく。
それが越えるということだと考えています。
僕がしばしば疑問に思うのは、師や先生というものを「教わる人」と祭り上げて越えられないものと考える人がいることです。
尊敬するのは結構ですが、教わろうと思っているうちは自分では考えようとしません。
その先に待っているのは衰退です。
例えば、ヨガでもなんでもいいのですが、新しいボディワークが誕生した時に、その創始者の持っているものを100とすると、100を全て伝えることはできません。
動画や資料をどれだけ細かく記したところで、言語化できない身体知の部分が存在しています。
すると頑張っても、100が99や98しか伝えることはできません。
その99持っている人が次の世代に伝えたら95・94になっていく。
それを繰り返していくと、やがて最初には存在した英知がどんどん失われて、魅力も薄れていきます。
様々な健康法が出てきては衰退していくのはそういう要素が大きいのだと思います。
だから、99持っている人は、どうにかして自分の経験値を積み上げて101にして次の人に伝えていかなければいけない。
そうして初めて維持することができます。
ましてや発展させようと思ったら、更にプラスαが必要になってきます。
長い年月で築き上げた知識やノウハウ、実践法を惜しげなく伝えてくださる方に対する礼儀として、責務として、僕は師を越えることこそが恩返しなのだと思います。
自分がやっていることに愛着を持っていればこそ、それが後世にも残って欲しい願えばこそ、どこかで師という高い壁を越えていかなければならない。
そう思うのです。
自分よりも凄い人を生み出す難しさと喜び
ただ、僕自身曲がりなりにも伝える立場に立ったことで感じるのは、自分を上回る人を生み出す難しさです。
頑張って伝えようとすればするほど自分の限界値にぶつかってしまいます。
自分が知らないことを教えることはできないから。
必死になって学んでみたところで、自分の天井は上がるけれど、伝える相手が自分を越えられるようになるわけじゃありません。
教えるということだけではダメなんだ、とそこで初めて気づきます。
1から10まで懇切丁寧に教えたら、自分の劣化版を生み出すだけです。
発現するはずだった「その人ならでは」のものは、削られ、角を丸められ、どこかで見たような既製品ができていく。
それは少なくとも僕の望むところではありません。
だから、「教えない」ということが出てくるのだと思います。
例えば、とにかく深い穴を掘りたい時に、
「さあ、自分の穴を掘って見ましょう」
最低限の説明でそう言ってみるわけです。
そうすることで、苦戦しながらも自分で考えて掘り進むことができます。
もちろん僕がある程度まで掘った状態で「さあ、どうぞ」と差し出すこともできます。
それは一見すると親切なんですが、どこかで頭打ちになってしまいます。
だって、譲られたその人は硬い地盤に突き当たった時の対処法もなにも知らないのだから。
そこまでの道のりで蓄積されてきたはずのものが全くない状態で放り出されたら、長期的に見た時により苦しむことになってしまいます。
だから、あえて教えずに1からきちんと段階的に体験させてあげることこそが実は親切なのだと思います。
過程は体験することはできるけれど、教えることはできないから。
ただ、掘るための道具は最新鋭のものを揃える。
それが僕にできることなんだろうな、と。
そうして僕が思いもよらなかったような方法を誰かが閃いて、自分のことを追い抜いていく人が1人でも生まれるならば、それはとても価値があることだなと感じます。
自分の限界値を超えて伝えることができる。
それは最高の指導者じゃないですか。