思想する「からだ」 竹内敏晴

思想する「からだ」竹内敏晴

自分と再会する

 オンラインヨガの本田信英です。
 僕はこのオンラインヨガにおいて、「自分と再会する」ということをテーマにしています。

 なにを喜びと感じ、なにがしたいかは諭されるでもなくわかり、大人に禁じられようとも手を出してしまう。自らの「快」を全身全霊で表現する子どもが年を重ねるごとに感覚が鈍っていく。
 なにがしたいのかわからないと嘆き、意味のない規定に従い、不調を抱えた身体を引きずり倒す。
 自分ではないなにかになりたいと願うけれど、そもそも遠ざけようとしている自分のことすら知らない。

 だから、まずは再会しよう。
 
 動きを通して、身体の声に耳を澄ませてみる。
 奥に引っ込んだ自分を引っ張り出してきて、対話しよう。

 そうして、どこかで分離した自分と再会する。
 その手段としてヨガをしたい。

 そんな想いで僕はヨガをやっています。

 けれど、本書『思想する「からだ」』を読んでみて自分の考えていた言葉にはまだまだ先があるのだと思い知らされました。

僕達は果たして本当に全身で語りかけているのか?

 同じようなことを言っていても心を鷲掴みにされるような人がいれば、まったく心に響かない人がいます。それは身体全体で語りかけていないからじゃないかと思います。

 棒立ちで、起伏のない声で、ボソボソと語られる言葉に心は震えません。
 

“ほとんどだれも、他の人にからだごと呼びかけていないのだ。(P22)”

 びっくりするほどに声と身体と言葉がバラバラで、だから人に届かない。どれだけ丁寧に説明しても伝わらない。
 そういう経験を、あるいは見聞きしたことがないでしょうか?

 僕はあります。
 特に声が出ない、ということがずっと悩みでした。
 強くお腹から声を出していても、なぜか遠くにいる人にまで届かない。
 
 声を大にして伝えたいはずなのに、喉のあたりで押し込めるように閉じる力が働いていて、口から漏れる声は勢いを失って、そのままぽとりと地面に落ちてしまう。
 そういう体験をしてきました。
 
 それが最近、身体を動かしていたら声が出るようになっていたことに気づき、感動して大声で歌っていました。
 
 身体と言葉、想いがバラバラになっていることはそんなに珍しいことじゃありません。

 夜、帰宅前に閉店間際のスーパーに訪れると、大抵惣菜などの割引セールをやっています。けれど、いつもその場を通りすがると気になってしまいます。

 店員の1人が大きな声で営業トークをしています。

「はい、お客さん。どうぞー。もう売り切りですよ。最終値引き価格です。半額ですよ!」

 そう呼びかける店員さんは、いつもお客さんに背を向けて陳列作業をしています。

 一体、誰に呼びかけているのかわかりません。
 近くをお客さんが通ると、顔を上げてようやくお客さんの方を向くのですが、その視線は決して、お客さんを捉えていません。微妙に避けるように、目を逸らしながら声だけで呼びかけている。
 相手を定めないまま放り投げられた声は、誰にも受け止められないまま、雪のようにあてどなく落ちて溶けていく。
 
 この人は本当はやりたくないのだなあ。
 割り切ってやっているのだなということがありありと伝わってくるわけです。
 
 そういった言葉と身体の不一致というのは意識上でも無意識下でも僕はすごく気になって、毎回立ち止まってしまいます。
 けれど、周りを見回してみるとまったく気にしている人がいなくて、BGMのように聞き流しながら商品を物色しています。
 
 そこでふと気づいたのは、受け止める人がいないのに、全身で語りかけるのは虚しいということ。
 
 著者が言うように「からだごと呼びかけていない」のは、受け止める人がいないのが原因なんじゃないかと思っています。
 昔はどうだったかはわかりません。でも、少なくとも今はそういう人が少ない。

 だから、聴ける(受け止める)人がとても重宝されるようになっているのでしょう。

 僕はインタビューゲームというもの100人目指してやっていて、それにはかなりエネルギーを使います。たった20分間話を聴くだけで、とても疲れます。
 相手からの非言語的なシグナルと質問の単語の選び方まで神経を張り巡らせて聴いていると、終わる頃には疲労困憊になっています。
 幸い、回数をこなすことで聴く体力がついてきましたが、全身で相手と関わることって本来エネルギーを必要とすることです。

 全身で受け止めて、全身で伝えていく。
 身体を投げ出して関わっていくということはそれだけ擦り傷も増えるということです。

 それが嫌だから人は傷つきやすい核となるものは何層もの膜でコーティングして、その表面をなぞるような会話を繰り広げる。そうしてどんどん感覚は鈍くなり、受け止めることよりも受け流すことばかりが上手くなっているのかもしれません。

逃げる身体

”人の全存在としての「からだ」が、人に「ふれる」ことから逃げている。わたしは一所懸命にこの発見を語り、どうしたらじかに、他人のからだにふれていけるか、そして応えることができるかを探ろうとした。(P23)”

 かつて、僕は試食販売をやったことがあります。
 初めの頃はなかなか買ってくれないし、そもそも試食をもらってくれないということが起きました。それがなんでだろうと結構真剣に思い悩んで、他の試食販売員を観察するようになりました。

 その結果わかったことがあります。
 相手が取りやすいようにとか細かいテクニックはあるんですが、簡単に言うと上手い人は試食させる時に身体ごと向かっていくんですね。そして、最後に手をそっと差し出します。
 
 僕のやり方はそれとは真逆でした。
 手を伸ばしてお客さんの前に差し出し、腰を引いて身体をお客さんから離そうとしていました。当時の僕は今よりも他人が怖くて、試食販売とはいえ見知らぬ人に試食を勧めることに抵抗を感じていました。
 言葉では「是非食べてください。いかがですか?」と言いながら、身体は必死にお客さんから逃げようとしていました。身体は正直です。

 そこでちょっと実験感覚で身体ごと寄って試食を配ると、途端にもらってくれるし、買ってくれるようになりました。そうすると面白くなってくるから不思議です。
 心と身体と言葉、それが全てが一致していた方がもちろんいいけれど、それが全てできないときはまずは身体と言葉を一致させていく。それだけでも相手の反応って違うのだということが初めてわかった瞬間でした。

出会いの次元

宇宙人との出会い
 例えば、往来で前方から歩いてきた人と行き違う時、同じ方向へと避けてしまったとしましょう。当然、相手の身体が目の前に迫ってきます。
「あっ」と思って、目を合わせる。相手も少しびっくりしている。
 
 そして口の中でもごもごと「すいません」と呟いて、すれ違っていく。
 
 さて、この2人ははたして出会ったというのでしょうか?

 僕はどうしてもこれを出会ったとは思えません。
 それがなぜかと考えた時に、そこにつながりが生まれていないからだと思います。半年後に同じ人と同じ場所で同じように出来事が起こったとしても、同じことが繰り返されるだけでなんの展開もありません。

 ただ、じゃあつながりがあれば出会ったというのかというと、そこにも疑問を覚えます。
 イベントで一緒の空間にいただけの人と出会ったというのでしょうか。あるいは、名刺交換して、一言二言喋った人は出会ったというんでしょうか?

 そこには個人差があるだろうけれど、一体どこからどこまでが出会ったことになるのかさっぱりわかりません。
 著者はそこに「出会いの次元」という考え方を入れることで説明しています。

 出会うのは人だけとは限りません。
 誰それの名言と出会って人生が変わる人がいる。人は言葉にも出会います。

 けれど、かつての名言の多くはどんな文脈の中でどんな意図、表情、声音で発せられたのかという情報は失われてしまっています。だから、身体の伴わない出会いは、出会いの次元としては浅くなります。
 
 そして、人と人の出会いについても様々な次元があります。

”これらの食い違いのやりとりの中で傷つくのは決まって集中力の深い人の方で、浅い人は、自分が相手を傷つけていることさえ気づかないでいることが多いようだ。(p31)”

 なにかしらのイベントを終え、後日その場にいた「山田太郎さんの話」を誰かにする時にAさんとBさんではこんな話し方の違いがあるとしましょう。

A「この前○○会社の社長に出会ったよ」
B「子ども好きな山田さんに出会ったよ」

 Aさんは「山田太郎(経営者)」ではなく「経営者(山田太郎)」という肩書きがメインになっています。
 その人と話をしたはずなのに、個人については全然知らないまま。肩書きとそれに紐づいた仕事の話はするけれど、個人としてのその人にはまったく辿り着いていないという。
 Bさんは個人としての山田さんに出会っています。最近生まれた子どもの話を身ぶり手ぶりを使いながら嬉々として話す様を目の当たりにしました。

「一緒に飲みに行って、初めて仲良くなれる」
 この前、そう言う友人がいました。
 それはおそらく普段とは違う場で、また酔いも手伝って初めて現れるその人の素に触れられるからです。肩書きのフィルターのその裏を覗けることで、ハッとする。
 ああ、この人はこういう人だったんだ、とそこで初めて「出会う」。

 そう、実は同じ人と何度も出会うんです。
 僕がこれまで使ってきた「再会」という表現は、異なる次元の、すなわちより深い層と触れるということなんです。

 それはもちろん他人に対してもそうだし、自分に対してもそうです。
 水面を人の心と見立てた時に、覗き込んで見えるものというのはせいぜいたかが知れています。特に見せまいと自ら水を濁している人もいます。

 そうした人の深い部分と出会うためにはどうあったって、身体ごと飛び込んでいくしかありません。呼吸の心配や水質が身体に害がないか心配しながらも身を投げ出していくことで、初めて出会えるものがあります。

声を出すことは吐くことだ

水面の木漏れ日
 声というのは、息に音をのせることです。
 ものすごくシンプルなことだけど、本書を読んでいてそれがしみじみとわかりました。

「声があってその合間に息をする」のではなく「吐く息に声が乗る」
 生まれたばかりの赤ちゃんだって、息をするために産声をあげます。

 前述の通り、僕は自分の声が通らないことに悩んでいました。
 それはしっかり吐けていなかったということでもあります。
 だから呼吸が弱い人は当然声も弱くなります。

 ヨガを通して、しっかり強く吐くということができるようになってきた時に声も少しずつ通るようになってきています。

 誰かに声を届けるよりも前に、まずは自分の息遣いを届ける。
 寒い日に手を温めるように「はー」と吐くのではなくて、呼吸のメリハリを相手に伝えるんです。
 
 今から私は喋るんですよ、って。
 そのために吸っているんですよ、って。

 そうすると、聴く側も「この人は喋りたいんだ」と聴く姿勢になります。
 
 僕はあまり音楽を聴きませんが、歌手が息継ぎをする瞬間の、吐ききって吸うその切り替わりがとても好きです。
 
 武道の世界では息を読まれることは死に直結するとも言われます。
 けれど、ある程度の生命の安全の保証された世界においては、あえて無防備に自分の呼吸を晒すことで相手に安心感を与えることもできると考えています。
 

まとめ

手のひらの写真
 僕は竹内敏晴という人に「出会い」ました。
 ここで語られる言葉と文章は、僕にとってはすごく刺さって、けれど痛みなく自分の中へと沁み渡っていく感覚がありました。

 そうそう、そうなんだよと何度も相槌を打ちながら、読み込んでいました。
 
 けれど、僕が出会ったのはまだまだ表層に過ぎないと感じています。 
 できれば存命のうちに会いたかったと感じる一方で、いないものは仕方ないのでまずは本を読んでいきたいと思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする