僕は小学生の子どもと関わらせていただく機会も多いです。
そうしていると、今の子どもの身体の使い方を見ていると色々な発見があります。
生活の中で失われたしゃがむ習慣
今は家庭や公園、公共交通機関でも和式便所が少なくなったので、小学生に成りたての子どもは和式便所の使い方を知りません。
だから小学校に入った時に和式用のトイレトレーニングをするのですが、使えない子も珍しくないそうです。
それは使い方や清潔感の問題ではなく、そもそもまずしゃがむことができません。
しゃがむとコテンと尻もちをついてしまいます。
日常的にしゃがむ機会がないので、足腰が難く、弱いです。
トイレは個室空間なので、データにはなかなか出てこないでしょうが、和式便所が当たり前だった時代から比べると確実に下半身は弱くなってきているのでしょう。
それは大人も他人事じゃありません。
例えば、あなたは最近いつしゃがみましたか?
昨日は何回しゃがみましたか?(膝を曲げ、腰を落としたか)
ものを拾う時も足だけ曲げて、ものを拾っていませんか?
日常生活の中で「しゃがむ」ということが失われてしまっています。
だからスクワットなど重心の上げ下げをすることをわざわざ運動としてやらなくちゃいけなくなっています。
加減がわからず怪我をする
教室の扉や壁、そして狭い場所で人とすれ違う時によくぶつかります。
これは自分の身体の高さや幅がどれくらいなのか体感としてよくわかっていない証拠です。
もちろん、大人と違って成長期で身体が変化するので、多少は体感覚と実際がずれることはあるでしょう。
だから、ぶつかる程度はわかります。
しかし、ぶつかることによって怪我をしてしまうのは考えものです。
ぶつかるかぶつからないかわからない時、無意識的に加減をするものですが、その危機感が働かない。
だから、走り回って思わぬ速度でぶつかって怪我をしてしまいます。
「これくらいなら大丈夫だろう」という予想がつかないのでしょう。
だから、友達とふざけてじゃれあっている時に強い力で殴ってしまうんですね。
追いかけっこをしていて、鬼役の子がタッチした時に手を骨折した。
そんな話を聞いた時にはさすがにびっくりしました。
身体遊びをしよう
なんでそんなに加減ができないのだろう?
そう疑問に思った時に身体遊びの重要性を思い出しました。
今の子どもは公園で集まってゲームをしています。
別にゲームを悪者だとも思っていませんし、無くせとも感じません。
僕も小学生時代ゲームをしていたので、やめろとは口が裂けても言えません。
ただゲームがない時代には男の子は相撲、女の子はゴム飛びやケンケンパをして遊んでいました。
その身体遊びの中で、自分はもちろん相手にも怪我をさせない身体の使い方や、リズム感覚を養っていました。
スポーツ競技に活かす運動神経以前の生きるための能力です。
だから、身体遊びをもっとするべきだと感じています。
そのためにゲームを使って欲しいです。
実際、ポケモンGOのように身体を動かすアプリも出てきているので、身体感覚を養うゲームは近いうちに出てくるだろうと思います。
わかるとできるは違う
そもそも別に子どもだって好きで怪我したり、させたりしているわけじゃないはずです。
加減するべきだということは頭でわかっている。
「思いやりを持って接してね」と言って、子どももそれを理解して実践しているつもりでも、実際に力加減を間違って相手を不快にさせているということもあるわけです。
言葉でわかることとできることの間には実は高い壁があります。
例えばスイッチのようにパワーが0か50か100かしか用意されていかったとして、一体どうやって加減をすればいいのでしょう?
まずは身体の中に微妙な加減のできるつまみを作ること。
思い切りぶつかったら自分も痛かったし、相手も泣いてしまった。
だから、ぶつかり方を考えたり、力任せではない技を考える。
小さな虫を捕まえたのが嬉しくて、握りつぶして死んでしまった。
それが悲しくて、今度は優しい力で扱うようになる。
そうやって身体同士、そして自然との触れ合いの中で身体の中に加減の感覚が芽吹いていきます。
そして、それはヨガの過程も一緒です。
最初は硬くて、全然思い通りに動かせないし、痛みを感じることがあります。
だからどうしたら良くなるかを考えます。
心地よい方に、力の抜けるように扱っていくことで、自分の思い通りに動かせるようになっていきます。
そうやってイメージと現実を一致させていくのがヨガなのかもしれません。
まとめ
僕はヨガを特別なものとして捉えるのが好きじゃありません。
癒しとか美容とかは割とどうでもいいと考えています。
手軽に身近に、それこそ子どもが身体遊びをするように、楽しみながらヨガをしたい。
そうして楽しんでいたら、いつ間にか心身が変わっていた。
そういうところを目指したいな、と改めて思いました。